平成22年9月30日(木) 中日新聞[9/29・岐阜県版] (クリックで拡大) NHKから新聞の記事が届く。白洲展の集荷が始まっていてその目玉の一つ、岐阜日吉神社の十一面観音像がお出ましいただくという内容だ。高田宮司をはじめ氏子総代の中村会長には本当にお世話になりました。ご好意にそむかないようにしっかりとした展覧会にしないとならない。集荷をされた高梨さん、吉田さんほかお世話になりました。 今度の展覧会は関西地方中心とはいえ、集荷先が100近くになる。各地の「かくれ里」のこれはという逸品にお願いして歩いたらそういうことになった。阿修羅展や薬師寺展のような大寺の展覧会とは一味違ったものになると思う。再来週は僕も伊賀島ヶ原の十一面観音の集荷に立ち会う予定だ。 人質三人が釈放されたらしい。罪の如何は不明だが、あの国のことだ、きっといろんなことを思慮しているのだろう。それに比べてわが国は子どもである。僕は無用な対立は好まないが、領土問題に限っては主張するべきはしないとならない。「粛々と」ではだれにも理解されないのである。やることは徹底的にやる。誰にでも分かるように論理的に。 祖父はいざとなると一番最初に逃げるのは外務省、と言っていたそうだが、恐らくいまも変わるまい。世界中にわかるように少なくても英語で理論武装し、即刻ビデオを流すべきだ。かれらのは外交ではなく、相手に媚びて卑下することだ。なんで国連の演説だって、中国のようにしないのか? それはかれらがそういうアドバイスはしないからだ。アドバイスをしないならまだましだ。「相手を刺激すると大変ですから」となだめるのである。インターナショナルを国際、と書くが国と国の際でごちゃごちゃやっていても駄目なのだ。ルートがないとかではなく、インターへ、中へと飛び込んでいくのだ。 そしてお互い主張し合い、大事な海のことを一緒に考えることだ。日本海や東シナ海の海上の道がなければ、いまの日本はなかったのである。稲作も仏教も様々な文化も、いやいや我々祖先がきた「道」なのだ。海は誰のものでもない。「領海」なんていうのもおかしな話だ。様々な民族が自由に行き来した中世、倭寇が跋扈した時代が僕は懐かしい。海は人類共有のものだ。海上に漕ぎ出せば未知なる世界が広がっているのである。 平成22年9月27日(月) 週刊ポストに《白洲信哉 ニッポンの神仏 連載第36回 〜北方を堅守する守護神〜》が掲載されました。 平成22年9月24日(金) 熊本八代にきている。ここは松井家という殿様がいて(細川家とは別に)将軍家に謁見が許された特別な家。肥後藩には二人の殿様がいたことになり、能関連のものを中心に「松井文庫」として文化遺産も残っている。幕府は薩摩を相当恐れていたのだろうか?江戸時代というのは各地で産業ができ、昨晩ご一緒だった桜間右陣さんはいまでも熊本と八代にお弟子さんがいる。熊本には桜間と友枝という能楽師の家があり、細川藩お抱えだった。明治になり殿様と一緒に東京に出ることになるのだが、そもそもそれが政治文化を地方から奪った根源だ。昔へはかえれないが「近代」の亡霊にいつまで付き合っているのか、まずは天皇家が京都へお帰りになる それからはじまるのだと思う。 さて、熊本JCの中村会長、八代JCの南会長 いろんなかたがたにお世話になりました。講演会では「かたじけなさに涙こぼるる」という新刊を中村会長がお持ちで、サインしたあとはじめて著作と対面する。一年連載した集大成、なかなかいい本に仕上がった。新潮のとんぼの本でも新刊(白洲正子祈りの道)がでた。八代の本屋さんにはそちらは届いていなかった。そう言えば新潮の本は一冊もなかった。多くの人に来て貰いました。ありがとうございました。 これから熊本へ移動。今晩は護光(細川)に会う。かれは熊本に戻り陶芸家になった。大事なことだ。 平成22年9月18日(土) 展覧会のチラシやポスターが送られてきた。いよいよはじまる。京都の知人、友人に郵送した。現在展示のパネルとかを一緒に作成している松山チーム、ポスターは彼らがつくったようである。世の中狭いね。来年は松山、東京と巡回します。ですが、会場によってでるものが違います。速玉大社の夫須美神の神像や、崇福寺の箱、チラシの写真にある円空や猿の神像など近江でしかでません。多くのかたにご覧いただきたいので何卒よろしくお願いします。 京都寺町の大吉さんの東京店(東青山)にはじめて行く。かれにもポスターを渡してきた。その足で一元堂で修業していたひろちゃん(本名不明)が新しく店を開いた、というのでお祝いにかけつける。三田さんの喫茶店が一つ増えたようだ。 美術にかかわる人たち、というのは個性的で面白い。もっといろんな方が入ってくるべきだと思う。展覧会での作品の選び方だってひとつの個性であろう。MIHO MUSEUMの金子さんから現在開かれている六古窯の展覧会の図録が送られてきた。確かに名品、でも僕はなにかが違うと(まだ見ていないのにご免なさい)写真では感じる。モノは立派なだけではなく、チャーミングなアクセント、欠けていてもそのものがもっている力、いろんな要素があって成り立つのだと思う。優等生、というのは人でもモノでもどこかしらけてみえるのは僕の偏見なのだろうか。 平成22年9月18日(土) 週刊ポストに《白洲信哉 ニッポンの神仏 連載第35回 〜笠置の弥勒信仰の起源〜》が掲載されました。 平成22年9月13日(月) 週刊ポストに《白洲信哉 ニッポンの神仏 連載第34回 〜石仏の野外博物館〜》が掲載されました。 平成22年9月12日(日) 軽井沢の瀬津家に来ている。勲が最近手に入れた斑唐津で飲もうという企みだ。煩悩美術館亭主中田さん、千宗室若も遅くに乱入する。斑唐津、無地唐津、絵唐津、井戸、粉引き杯・・・・。宗屋若が持参した無地刷毛もなかなかよかったが、何より勲が絶対に売らないという「かわず」と銘々された粉引茶碗は凄かった。 これで飲んだら美味いだろうな、との欲望を勲は頑強に拒む。手強いので、まずは持参した「いちぼ」をフライパンで焼き色をつけ、ローストビールのように仕上げて、オーストリアの西洋山葵と一緒に食べさせる。美味いモノに少し心が開け、水を入れてもいいとの許可をもらう。 水が入ると、白さは際立ち、新たな生命を宿ったかのような輝きだ。水を一気に飲んだ。口当たりも尋常ではなく、掌にすっぽりおさまり、みこみの中に全身が吸い込まれていくような感覚になる。僕はしばし凝視し、指先まで全神経をそそぐ。柔らかな肌、唇に吸い付く感覚、適度な重さに味わい深い白色。満点だ。 ずっと見ていると、横にいる煩悩美術館亭主の訴えるような目と目が合う。「悪い悪い」と言って手渡す。かれはモノを通じての友人だ。今度は彼が分厚い掌におさめ、舐めるように眺めている。知らない人が見たら一体なにをしているのか?山の中のまさに変態四人組だ。幸せな時間、いつものように酩酊し、朝起きたら宗屋若が横で寝ていた。 「一服如何ですか?」と若に誘われる。持参した漆の箱から絵唐津茶碗を取り出し、その中から棗がでてくる。仕覆はヨーガンレール、その箱は輪島の赤木さん作、流石にセンスがいい。僕の井戸茶碗ではじめてお茶を点てて頂く。お抹茶ってこんなに美味いものだったか。かれの無地刷毛杯でお代わりする。二日酔いなので、皆は昼過ぎに戻り僕だけが残る。充実した時間のあとに必ずくる心地よい「余韻」。勲君へ、我が儘言いましたが本当にありがとう! 朝の一服 平成22年9月6日(月) 木喰仏 週刊ポストのいつもの面々と新潟、長野と旅している。円空のことを書いたら、新潟の観光課から、「木喰が一番残っているのは新潟なのです」という手紙をもらった。この前取材をした忍坂のかたからも礼状をもらう。反応があるのは嬉しいことだ。 「この頃の信州は秋風ですよ」なんて一月前に話していたけど、郡上八幡は39度もあったというからどうかしている。地魚食べてから入った飲み屋、その名も「武相荘」。ちっとも無愛想じゃない明るい店内だった。いやいや驚いた。 小沢一郎氏は本気のようだ。「200兆の予算を組みかえる」のだそうだ。本当にできるのか?でも硬直したこの国の仕組みを変えるにはいいことだと思うし、「今までの」ことをまず壊すこと、が必要だと思う。応援しようではないか。茂木さんの言葉をかりるなら「偶有性」の海に飛び込むこと。当然予算がつかない課や局は仕事がなくなることになる。明治以来当たり前にやってきたことを、「考える」ことをしないと務まらなくなる。そんなことをすると「混乱」とか「異例」とかマスコミはいうけど、「混沌」という状態から生み出すことを、あまりにもしなさすぎたんではないだろうか。批判ばかりするのではなく、「国のかたち」を真剣に考える端緒としたいものだ。 弥彦山から 日本海をのぞむ 平成22年9月6日(月) 週刊ポストに《白洲信哉 ニッポンの神仏 連載第33回 〜雄大な自然信仰の社〜》が掲載されました。 平成22年9月1日(水) 今秋初秋刀魚 今年のような残暑は経験がない。こはだの新子も順調に成長しているようで、年に一度の寿司幸さんにも行ってきた。典型的な江戸前の店が少なくなったなかで、貴重なご主人だ。年追うにつれてせっかちになっていくのも、あの親父さんだと許せるように思うから不思議。そうそう、茂木さんがわざわざ寿司屋にMacのソフトを届けてくれた。この前もここに届けものがあったのだが、寿司屋が宅配の中継地になっている! だが、サンマは駄目なようで、値段も手ごろなものがあったので焼いてみたけど、油がぬけている。天候に左右されるのは人間ばかりではない。 古都逍遥の撮影で奈良の当麻寺に。座っているだけで汗がでてくる。ゲストの村治佳織さんも、ときどき行くスペインより暑い!と。スペインの日差しは強いけど、湿度が低いので日陰はなんとか過せる。暑さの質の違いがあるということ。厳しい環境にあって、1400年前の塑像の仏がお堂に鎮座しているのは、奇跡のようなことに思えてきた。西国浄土、という思想の原点はこの地にあるのだが、平等院に帰結する「だれでも平等に極楽に浄土できる」という考えが、欧州の市民革命以前にわが国にはあったのである。日本の風土、風景の恩恵でもあるし、暑さも有りがたいと考えておくことにする。 東京に戻る途中で信じられない連絡が入る。国の行政指導というのは、国の活力を無くすことになるであろう。頭にくるけど机上の空論をおしつける人というのは、有る意味かわいそうな人生だ。自らが汗をかき、努力することをしらないで死んで行くのだから。 文化とは自ら種を播き、摘み取るもの。一定の位にある人は、一定期間稲作を経験することを義務付けるべきではないかと真剣に思う。 バックナンバー 平成30年
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