平成21年10月31日(土) 月心寺 門 白洲展の出品依頼で岐阜県安八郡の日吉神社へ再び行く。今回は氏子総代会の会長である中村正孝さんが中心となり、臨時の会議を開いてくださる。そこで白山姫を偲ばせる可憐な十一面観音、展覧会に絶対欠かせないので是非ともご理解頂きたいとNHKの吉田さんと一緒に説明する。高田宮司さんの計らいで、特別に氏子のかたがたと観音様を拝ませて頂いた。 同じ件で室生寺にも行く。彩色鮮やかな十一面観音像、深い彫りが目をひく釈迦如来坐像、お寺のご本尊である如意輪観音 祖母がその厨子のカエルマタがいいとした記したのも確認する。佐伯住職にお願いして辞した。室生寺は中学生のとき、祖母と一緒に訪ねた思い出の社、大晦日には復興した五重塔を特別にご開帳するという。来年は平城遷都の記念の年である。 京都へ移動し週刊ポスト古都逍遥の取材。室生寺を紹介して頂いた坂本さんに報告。今回のゲストは書道家川邊りえ子さん、庭は祖母が「日本のたくみ」に記した月心寺でした。今月末に掲載予定です。 これから黒姫に新蕎麦を食べに行こうと思っている。高速道路は渋滞しているようだ。千円とか無料とか言っているけど、償還するまでは現在の半額程度で料金をとったほうがいいのではないかな。現在京都まで約一万円、それが千円というのも極端である。半分程度ならそんなに集中しないんじゃないかな。一番の問題は償還終わっているのに関わらず、新しい道路の資金にまわる仕組みにあるのではないだろうか? ふじおかさんは今年場所を飯綱に越したというから黒姫ではない。どんなところか楽しみである。 平成21年10月26日(月) 週刊ポストに、“白洲信哉 続ニッポンの流儀 第40回 〜隠岐 闘牛〜”が掲載されました。 平成21年10月24日(土) 先般の台風で取材に行けず、そのかわりのテーマで急遽鞍馬の火祭りに行く。ポストの酒井さんが調査すると、物凄い数の観光客で、道路は封鎖され唯一の足である電車も混んで乗れないという。こういうときは地元の人に聞くのに限るということで宮澤さんに伺ったら、鞍馬に知人がいてそのかたから沢山の情報を仕入れられた上に、「よかったらベースにつかってください」と。林陽光さんの昔ながらの御宅に、李朝の家具や器でしつらえられ、チョウナをうった床が素晴らしい。鞍馬寺は義経とか天狗で有名だが、この火祭りは由岐神社の祭礼でまずはお参りに行く。ご神木の大杉が天を突き刺していた。今週がその原稿の〆切で、日記を書いている場合ではないのだが、林さんのお陰で得がたい経験ができた。林さんの家は名主(神主)さんの家で、氏子の一人として特別のタスキをもらい一緒に参加できたからである。驚いたのは比叡山の光永覚道さんが、松明をもって白装束で参加されていたことである。なかなか堂に入っていた。鞍馬寺と由岐神社にしても、神と仏は一体なんだなと嬉しかった。 週刊ポストの「日本の流儀」の連載のこれが最後の取材となった。最初の祭りの取材は「三河の花祭り」この二年間はよく燻された。同行して頂いたカメラマンの太田さんと酒井さん、なれない先の取材でご苦労かけたと思います。毎週原稿をやり取りしてくださった油井さん、そしてとくに美味いものには敏感な鼻の利く中島さん、昨晩もお疲れ様でした!ほか編集部の皆さまに大変お世話になりました。 平成21年10月20日(火) 花活けた 今日は茂木さんの誕生日である。なんで覚えたかというと、最初に会った年にカゼをひいて予定を果たせなかったからだ。でも覚え易い日だ。先週の土曜日茂木さんといろいろしゃべる。そのことはかれの日記に詳しいので省くけど、日本橋の瀬津雅陶堂での展覧会を確かめるべく再び行って来た。帰って図録を眺めていると、どうも合点がいなかいものがあったからである。まあ、主人の勲が茂木さんに「見せたい」という気持ちを叶える事で精一杯で、自分ではモノを見ていなかったようにも思う。やっぱり「美」は個人的なものである。 桃山時代は大変な半世紀。あっという間の半世紀。桃山と似非桃山との差は大変なものがある。力強さは尋常ではないね。それが改めで感じたのと色の「緑」にも何種類あるということにもちゃんと合点した。 ニュースをみていて腹がたってきた。郵政の西川さんの辞任の会見を晩メシをつくりながらみていた。今日はのむぞ。やっぱり日本は役人の国だし、民間の感覚というのは受け入れらないようだ。あの施設、売らないままだと、維持費だけかかると思うけど、大臣が払うのかね。前の人も同様だ。あまりに無責任。もう、売れやしないし「見切り千両」という言葉もしらないだろう。密約があったかはしらないけど、僕は小泉さんの郵政の話は基本的にいいと思っている人間だ。あんな民意の無い大臣と、前の選挙で圧倒的多数をとった民意と比較になるのだろうか。いまの不況は断じて郵政民営化のせいではない。個人的には存じないが、西川さんは本当に悔しかっただろうと思う。大変残念だし鳩山改革もおわったのかもしれない。 平成21年10月19日(月) 週刊ポストに、“白洲信哉 続ニッポンの流儀 第39回 〜焼酎〜”が掲載されました。 平成21年10月15日(木) 牛突き 隠岐島へ闘牛を見に行く。9月1日の八朔の大会に行く予定であったが、英国出張が入り今年の千秋楽になったわけだ。実は昨年からここの闘牛の話をカメラマンの太田さんから聞いていたのだが、ラフェスタに出ることになり残念ながら諦めた。今年も同じ時期10日土曜日明治神宮スタートだった。祖父のベントレーのオーナーである涌井さんにも久ぶりにお会いする。13日にゴール後のパーテイに来ないかと誘われたけど、今回は逃すまいと思っていた。 13日隠岐空港へ降り立つと、先乗りしていた太田さんと酒井さんが手を振って出迎えてくれた。なんか変な感じ。祭りまでは時間があるので、檀鏡の滝、水若酢神社、玉若酢神社など見て廻る。隠岐造りという神社建築はいろんな形態が混じって見所あり、古墳と一体となって神社がある。島前の神社も然りだったが、名神大社が四社もあり、隠岐国は出雲とは独立して長らくある。黒曜石が山陰で唯一出土することからも、太古より非常に大事な島だったことがわかる。流人というけど、江戸時代まで貴種の宝庫であり、島にはその子孫だっているかもしれぬ。そんな感じがする品もある佇まいである。 闘牛は流罪になった後鳥羽上皇を慰めるために行われている。千秋楽といったが、相撲と牛が入れ替わっているだけで、カラフルなのぼりがたち円形の柵のなかで八番行われた。これもポストに書くのでお楽しみに。 いつも思うけど離島の道路は立派である。本当にそろそろこの構造をかえないと大変である。いくらなんでもやり過ぎだし、「地方が疲弊」すろといいながら日本全体がぼろぼろになる。成田の問題とか予算の使い方をかえようとしているのに、地方のかたがたは相も変わらずである。マスコミも然り、当たり前の観点で報道するだけでなく、自らニュースを掘り起こすべきである。記者クラブなんて早くなくせばいいのにまだなのかな? 隠岐以外に闘牛は沖縄や宇和島、八丈島(かつて)などにもあるのだが、大変な災害があった山古志村でも行われている。最近そこの闘牛場はコンクリートの観覧席が出来たと同行のカメラマン、太田さんから聞かされた。復興は大事だが観覧席をつくり立派にすると趣というものがなくなる。隠岐の闘牛は昔ながらのほのぼのとした秋祭りだった。月曜日に講演した椿山荘の特設能舞台、お能も本来は外で行った。東京にうつり立派な能楽堂ができたが、外での舞台は格別だと思う。立派な箱物はかえって「文化」の質をおとしてしまうのである。 そろそろおらが街に予算をもってきてええかっこすり田舎根性はやめようではないか。ここの選挙区のあるかたの「はたらく」というスローガンにはただただ呆れるばかりであった。 見合う黒牛 水若酢神社 本殿 玉若酢神社 大杉 洞窟にある 焼火神社本殿 後鳥羽上皇 火葬場 海士町 宇賀受神社 平成21年10月12日(月) 週刊ポストに、“白洲信哉 続ニッポンの流儀 第38回 〜実りの秋〜”が掲載されました。 平成21年10月8日(木) 白金酒造 黄金千貫 奄美大島、鹿児島と「焼酎」の旅から戻る。やっぱり現場をみないとダメである。ワインにしてもウイスキーにしても、酒蔵を見る前と後とは感じ方がまるで違う。作り手の顔と味はイコールである。熱く真面目なお酒好きの人々だった。白金酒造で頼んだ「にごり酒」が楽しみである。昨日はポストの締め切りで書きました。いずれ出ると思います。 鹿児島は祖母正子の実家、僕も四分の一は薩摩である。示現流の東郷さんにお会いする時間はなかったが、天文館の繁華街にある薩摩料理屋は薩摩らしく、隣のお客とも仲良くなる。店を出るときに「どこか良いバーはないですね?」と言うと、店の主人はいくつか教えてくださったが行った事はないという。すると隣のかたがどんなところがいいのか?というので、年代モノのウイスキーがあれば女はいらん、というと「ちょっと待て」といいどこかに電話をかけ、また「チョッと待て」といい店を出て行った。 しばらく待っていると、店の人を連れて戻ってきて「行った事なかったから店をみてきた、ここなら大丈夫」という。なんという親切なかたがた。九州特有とも言えるかもしれないが、最後に「高かったら俺にいってこい」ともいう。会ったばかりだし連絡先もしらないんだけども、と思ってけど握手をして分かれた。ラフロイグ クオーターカスクを酒井さんと飲んだ。 予定では昨日から上高地に行くはずだったが、30年ぶりの大型台風に恐れをなし中止することになる。昼間に時間が出来たので、大倉集古館の「根来」展を見に行く。さすがに田島さん、いい展覧会だった。多分我々日本人にしかわからない「美」だろう。一見すると弱々しく、塗料も剥げ用途のわからないものが並んでいる。だが、みればみるほど存在感を増し、力強く大事に使い倒した先人に敬意する。皆さま、是非是非ご覧ください。なかなかこのレベルが一堂に介することはない。大倉を出て田島さんに電話する。お疲れ様でした。それにしても空いていた。僕のほかに二人、日本の美術はどこに行くのであろうか。 富田酒造 富田酒造 仕込んですぐ 平成21年10月5日(月) 週刊ポストに、“白洲信哉 続ニッポンの流儀 第37回 〜鹿踊り〜”が掲載されました。 平成21年10月2日(金) 野呂イクラ 美味い! 朝、茂木さんの「起きている?」という電話で目が覚める。「起きてる」と言ったけどまだベットの中だった。お陰で根津美術館の内覧会に行く事ができる。 入り口入ると新しい竹垣が目に眩しい。まず、玄関口で根津館長にご挨拶し、目的の那智滝図に向かう。出来るだけ周囲のかたと目を合わせないようにするのだが、なかなかうまくいかない。いつもそうなのだが、モノをみているのか、人と話しに来ているのかわからなくなる。とくにこうした内覧会では会場での話し声が多い。うんざりする。パーテイ会場があるのだから、そっちで話せばいい、と思いながら中を一周する。以前より広く最新の照明か?格段に見易い。 会場もこなれてきて、再び滝図の部屋に戻る。ほんとうにいい時間だった。彼と二人、久し振りの滝図はみずみずしく、滝口から滝壺まで、いや画面全体が流れている。滝口に月が出て、最下部にある朱のお宮はなにを描いているのかと考えていた。こんなにゆっくり堪能したのは初めてで、大きな軸は離れてみるとまた違った趣だ。 横に春日曼荼羅がかかっているのだが、そのまっすぐ伸びた参道と滝図の滝とが呼応する。僕はいっぺんに春日大社と那智の滝の前に立っているように感じだった。普通こういう種類のものを、「神道美術」というが、もうこうした言葉を使わないほうがいいんじゃないかな?こうしたものは「日本人そのもの」じゃないかな。神道とか仏教とかそんな言葉でわけるべきじゃない。仏教美術のなかに「曼荼羅」というものがあるが、それにも二種類あると思う。仏教美術にだって、我々の根っこに近いものが沢山ある。神道とか仏教とかそんな言葉を超越しているのである。 ポストの中島さんとの約束があったので会場を出たが、いつまで見ていたかった。マルローは那智滝図と対峙し、二時間凝視していたという。僕の企んでいる白洲展に、協力頂けるかは難しいのだが、祖母も一番好きな那智であり掛軸だった。いやー素晴らしい。五年ぶりの滝図、来月8日までなので是非来館して、日本そのものの美術を感じてください。 平成21年10月1日(木) 家庭画報に「生誕100年に向けて:祈り−白洲正子が見た日本人の信仰〜第八回」が掲載されました。 バックナンバー 平成30年
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